はらぐち閑話 その2
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はらぐち閑話 その2
発行者 戸畑はらぐち酒店はらぐち会
編集責任者 吉本・浦野・前田・大内田・諸岡・安行
発行日 平成23年5月10日16
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痛恨の手紙
白色の二重封筒から出てきたT君からの便りは、A4版の白いコピー用紙に、標準の
10.5ポイント明朝体のフォントで横書きにプリントした、ビジネス文書そのままの味もそっけもない手紙である。四つ折にしただけでは封筒からはみ出るので、さらに端を短くたたんであった。
大学のクラス会を毎年、東京・横浜あたりで開いているが、その年は私ら2人が住んでいる九州に遠征することが1年前から決まっており、私ら現地組とT君ら東京在住の幹事団との間で、春から頻繁に連絡を交わしていた。たいていはe-mailでこと足りるのだが、要保存のものや受け取った側がプリントアウトすると思われるものは文書でやりとりしていた。この手紙には、当方で立案した基本コースとオプショナルツアーの企画案に対する謝辞と、参加費を振り込む私の郵便貯金番号をみんなに通知するので知らせてほしい、という依頼などが記されていた。
文章はコピー用紙の3分の2ほどで終わり、その末尾に、まるで木に竹を接いだように、
「ところで、あの馬刺しの店にもう一度行きたいですね」と一行付け足してあった。これが生涯心に残る痛恨の手紙になろうとは、思ってもみなかった。2008年8月末のことである。
その手紙の1年前、3月から6月にかけて、同じクラスのメンバー2人がたて続けに世を去った。同級生はもともと26人の少人数なうえ、授業では毎時間出欠の点呼があり、また4人ほどの組に分かれて行う実験が週にいくつもあって、だれかれの区別なく全員がいやおうなしに親しくならざるをえなかったが、残念ながらこの2人の告別式には参列できなかった。千の風はこれで6人を数える。
「寂しい酒より、楽しい酒で元気をつけよう」と何人かに声をかけたら、真っ先に乗ってきたのが、大学時代から親しいなかでも一番親しくしているT君だった。彼の入社した昔の「弱電メーカー」が高度経済成長の時期にコンピューター技術の発展とともに巨大なコンピューター・メーカーへと発展したことや彼の人柄もあって、彼はC&C事業本部の支配人、次いで子会社の社長にと、企業とともに成長を遂げた。学生時代には、春休みに1年間のバイト代をはたいて西日本、四国、九州をまる1ヶ月かけて一緒に漫遊した。卒業して私が専攻から大きくかけ離れた分野へ進んだ後も、気の置けない間柄は変わることなく続き、東京在勤中は一緒に幹事を務めて、有楽町・マリオン14階の談話室で幹事会をした後に、こっそり2人で新橋のカラオケによく足を伸ばした。学生時代に音楽には興味を示さなかったのに、いつの間にか若い世代が好む歌を得意とするようになっていた。
お互いに現役をリタイアした身になって、私が彼を案内した先は、カラオケでなく、神田・淡路町の古い和風の店Mやである。やぶそば、鳥鍋や牡丹鍋の老舗のある一角から靖国通りを隔てた向かい側の裏通りに縄のれんをかけた木造の店で、造りはそば屋だが、中身は昔風の飲み屋だ。そば屋がベースで、刺し身、天ぷら、どじょうの柳川鍋など、一通りのものはあって、夕方6時過ぎには50人ほどの客でいっぱいになる。30年ほど前、友人に連れられて行った当事は、周辺の常連客だけの落ち着いた雰囲気だったが、インターネットにホームページが載るようになって、遠来の客が増え、騒がしい店に変わった。
常連客の一番の目当ては馬刺しとサクラ鍋である。「店の格式は東京で三番目だが、値段は一番安い」と、昔から評判であった。ちなみに、一番目の店は台東区日本堤、二番目は渋谷と聞いたが、そちらはまだ行ったことはがない。この店の馬刺しは赤身と霜降りがあり、どちらも甲乙つけがたい。味わい、舌触り、歯ごたえと三拍子そろっているうえに、圧倒されるほどのボリュームが何ともうれしい。やわらかくて歯ごたえがしっかりしているところは、すし屋のネタを思わせる。2人顔を突き合わせて飲むのは十数年ぶりで、いつもの2倍以上、お銚子が並んだ。
北九州に戻ると、彼からのメールが待っていた。
――とてもユニークなお店でのボリュームいっぱいの出し物にはビックリしました。また不思議なお隣さんとの会話も楽しく、不思議な出会いもあり思い出に残るひとときとなりました。
貴兄のいわれるように「やみつきになりそうな」お店でした――
飲み仲間を連れて行こうと思うが、私とも「あの店でまた一緒に飲みたい」とあった。
その後、彼とは、別の場所では一緒に飲んでいる。例のクラス会がその年の暮れに横浜・日ノ出町のすき焼きの老舗であり、この店は、彼が住んでいる八王子から家族連れで通うほどの気に入りの店だった。ここでいつものように痛飲し、翌年の会を九州でと決めた。
冒頭の手紙は、その一連の打ち合わせの中の一こまである。その席では、馬刺しの店のことはお互いに念頭から消えていた。
年が移り、11月半ばに指宿温泉で、という幹事団との合意のもとにこちらはプランニングを進めていく。そして期日が二カ月余り後に迫ったときに届いたのが前記の手紙である。私の頭の中は指宿でいっぱいだったし、彼もまた、この旅行を心底から楽しみにしているかのように見えた。指宿の後、鈍行列車で通ったあとをレンタカーでたどり、黒川温泉などで2泊ほどして福岡空港へ、と準備をしていた。ところが、宿や翌日の観光のマイクロバスの手配もしっかり整った一カ月後、幹事団の1人からメールが入った。「Tさんが逝去なさいました」。このとき、「あの馬刺しの店にまた行きたい」という彼の思いが、切々と私の胸に伝わってきた。
私と彼をくくりつけた共通項は、ジョーク、ありていに言えば駄洒落だった。飲みながら、あるいはふだんの会話のなかで、同じジョークを思い浮かべることがよくあった。同じ言葉が同時に口に出たこともしばしばある。先を越されると、「コラッ」と相手の額に手が走り、杯が進んだ。たがいに、相手の思いを読み取れるかのようだった。自分では気づかない自分を、彼の中に読み取ることもできた。彼が消え去った後の空白を埋めるものは何もない。
葬儀がすんだ後で、残された奥さんがこう打ち明けた。
――主人は、体の変調に気づいて自分で電話を掛けて救急車を呼んだんです。そのあと、机の中のどのファイルの書類を持ってこい、というようにこまごまと私に指示をして、処理している間に体温が刻々と低下して行き、日が暮れて間もなく脈が切れました――
現代のビジネスマンの見本のように、最後の最後までテキパキと几帳面に物事を処理して世を去った彼は、あの店で何を言いたかったのだろうか。
「寂しい酒でなく楽しい酒をもっと飲もう」と言いだしながら、どうして彼の思いをくみ取ることができなかったのか。悔やみきれない悔やみを誘う、痛恨の手紙が残り、「鍋島の歌」(最終ページの歌詞参照)の第2節が生まれた。
(吉本光一)
「酒」が「お酒」に変わった日
「この世からなくなればいいのに・・・」
というのが幼いころから私にとっての「酒」への想いでした。日ごろは優しくて穏やかな父が、飲みに出かけた夜は人が変わったように悪態をつき、母と大喧嘩。私はその度に布団の中で体をこわばらせ泣いていました。東京の叔父においてはさらにひどく、酒で人生を狂わせてしまったようなものです。あえて「じいちゃん」と呼びますが、祖父は、体が酒とたばこで出来ているのではないかと思うくらいの人で、毎日夕方になると、近所の角打ちに出かけていました。戦争で負傷した足をひきずりながら、雨が降っても、必ず出かけていきます。幼い私は、その角打ちから出てくるおいちゃんたちの赤らんだ顔や、大声がこわくて、プーンと匂う酒のにおいが嫌で、「じいちゃんたら、なんであんなところへ行くんだろう」と思ってました。
ただ、じいちゃんが「ほれ、淑子」と言って、お土産に持って帰ってきてくれる「おつまみ」を楽しみにしてました。
そんな酒嫌いの私が「角打ちのピアニスト」なんて呼ばれる日がこようとは!!
それは・・・ある知人から、友人の就職祝いを角打ちやでするから、ピアノ演奏をしてもらえないかという話をいただいたことがきっかけです。ピアノがないところでも、求められるところへはどこでも出かけ、演奏してきた私ですから「喜んで!」と答えたものの、まさか角打ちの店の店内が狭いため、店先の路上に電子ピアノを持ち出し、演奏することになるとは・・・。
その就職祝いの夜が、「はらぐち会」のみなさんとの出逢いでした。それから、「一杯やりませんか?」と声をかけていただくようになり、角打ちするようになりました。コンサートにみなさんで足をはこんでいただいたり、蔵開きにご一緒させていただいたり、さらには日本酒「鍋島」の歌をつくるようになったり!!
そんなみなさんとの時間の中で、いつしか「この人たちはどうしてこんなに楽しそうにお酒を飲んでいるのだろう」「お酒って、楽しいものなんだなぁ」「お酒って美味しいなぁ」
と思うようになっている自分に気づきました。
「はらぐち会」のみなさんが、あんなに嫌いだった「酒」を、今ではなくてはならないほど大好きな「お酒」に変えてくださったのです。人生って不思議なものです。
まだ、父や叔父とお酒を飲むチャンスはおとずれていませんが、いつの日かそんな日がくるような気がします。
そして、天国のじいちゃんも「淑子が角打ちかい? 酒の味が少しは分かるようになったかのぉ」と笑っていることでしょう。
(まちに生きる音楽家:谷口淑子)
銚子と徳利は別物
飲みに行った時「銚子 一本」なんて頼むと出てくるのは「徳利」、そうです「燗徳利」ですよね。では「銚子」と「徳利」、同じものを指すのに呼び名が違うのは、どうしてなのか? 実は元々この二つの酒器は別物でした。
「銚子」とはどのようなものかご存知でしょうか。
本来の「銚子」は宮中行事の祝宴などで使われた長い柄の付いた金銅製の容器で、今なら結婚式の三々九度で使われていますから“ああ あれか”、そうあれです。
またこの「銚子」にお酒を注ぐ容器として、お茶の急須のような形の「堤(ひさげ)」と呼ばれる銅製の容器があり、当初は儀式用の酒注ぎとして使用していました。それが江戸前期に湯や汁用に使われるようになると「銚子」と呼ばれて燗酒容器として使用されるようになりました。
ややこしい話ですが、今しばらくお付き合いを。
次に「徳利」は元々、お酒を神棚に供える為の「瓶子(へいし)」が変化したのだそうです。二、三升用の大きさで、量り売りの酒、調味料等を入れるのに使用されていました。狸の置物が手にしているのが、「徳利」です。
その後、一、二合の「徳利」が出て来ましたが、同じ頃に「お猪口」も出て来ました。この「お猪口」は元々、和え物や酒の肴が盛られ付き出しとして出されていましたが、後に酒盃やそばの汁用として使用されるようになります。そういえば「そば猪口」って言いますよね。
この頃から「徳利」が主流へと変化していきます。その理由として、鉄や銅製の「銚子」で燗されたお酒は金気が味に移って美味しくなくなると嫌われ、湯煎された「徳利」のお酒の方が美味しいとされて現在に至っているようです。
銚子だろうが 徳利だろうが ややこしい事は忘れ
「体調よし 気分よし 肴よし」の三拍子がそろえば何処のお酒も美味いもんです。
(酒夢人:諸岡昭男)
なしとても 春なわすれそ 酔い心 桜梅の香に 先越されるな
東京からの投稿です。
地震にも遭い、沢山の失せ物に気付く今日この頃ですが、心の春を忘れちゃいけない
いけない…。懐かしの香りのお蔭で桜・梅の開花より早く目醒めることができそうです。
酔いとは不思議なもので、嫌なことを消すわけでもなくしみじみとぼかし良いことは増
幅させて浸らせてくれますね。垣根を取り払い絆を深める。角打ちとの出会いは大学1年
の19歳の頃でした。当時最年少の会員で、かれこれ5年前でしょうか。20歳で低髄に
なってしまったので実際にご一緒させて頂いたのは数回でしたが世代を超えてのお付き
合いは今も何かしらの影響を与えてくれます。終わらせなければ終わりはないのですね。
はらぐち閑話の冊子、鍋島をYさんに送って頂き、またこうして関わることができま
した。懐かしい香りとは芳香分子が鼻孔をくすぐることだけではなく、冊子として手に取
り文字として読むことでも感じ取ることができます。もちろん酒を口に含んだ瞬間にも。
さて、今回は「鍋島のうた」を我がバンドでカバーさせて頂きました。ほろ酔い合唱バ
ンドサウンドを目指していたらいつの間にか3月に…。曲を頂いたのは昨年11月だった
というのに…。
カバーした「鍋島のうた」は軽くイラストを付けて近いうちに YouTubeに上げたいと
思っています。
鍋島の香りに釣られて取る弦(言)の 舞い散る色は酔いしれむ
雪に代わりて薄桃色の桜一片
歌ついでに詠わせていただきました。
皆さんと一緒に呑み、歌える日を楽しみにしています。
(ていずいさん:はるな明菜)
*九工大の卒業生、Googleで低髄さんを検索してください、脳脊髄液減少症と闘っています。
へべれけ
私は、お酌されるのが嫌いだ。自分が相手より少し立場が上になったように錯覚し、気はずかしくてムズムズする。年上の方からお酌をされる時など、本当に申し訳なく思い、かと言ってお断りするのも失礼なような気がして、頭の中ではプチパニックをおこしている。でも本当に有難い事だと思う。
最近では、あまり聞かれなくなったが、飲みすぎた状態を“へべれけ”と言う。一説に
よるとギリシャ語が起源らしい。
“へーべ”が女神様の名前、“リュケ”がお酌。“ヘーベ・リュケ”は“女神のお酌”で“飲みすぎた状態”となるそうだ。
なるほどねぇ ついでいただくのはうれしいんですが、できれば女性のほうが・・・。
「冗談ですよ!」(汗)
いつも有難うございます。
(櫻木大祐)
角打ち見習い
初めての角打ちは、20歳位のときで、今はないが、門司駅近くにあった都留酒店であった。
先輩に連れられ、まずはビール、次は当然のコップ酒でアテは赤貝・鯖の缶詰、角天を炙った物等々で酒よりアテがいいぞと内心思った。それから、月に何度か連れられて行ったが、ひよっこの分際では一人で行く勇気?はなかった。
親父は角打ちより、家での晩酌派で、私は、角打ちについて若干暗いイメージを持っていた。が、友、酒、アテ、これに引かれイメージが変わった、独特の雰囲気もいい経験になった。
角打ちをしていると、黙ってお金を置いたらスッとコップが出てきて、注がれると同時に口へ、また、同じ酒、同じアテだけで通すお客に感服している。
私は、死ぬまでこの様な真似はできない、友がいれば自然と尻が長くなるからだ。
だから、私の名刺には、小さく“角打ち見習い”と記している。
(安行啓二)
土佐の銘酒・司牡丹
過日、友人から、「この本面白いから読んだら」と、いただいたのが山本一力の『牡丹酒−深川黄表紙掛取り帖<2>』である。面白いを超して痛快な読み物だったので難なく一力に嵌ってしまった。
小説『牡丹酒…』の中身は、その名の通り、土佐の銘酒司牡丹を江戸で売りさばく広目を請け負った定斎売り蔵秀、女絵師雅乃、文師辰次郎、飾り行灯師宗佑の裏家業4人衆が織り成す知恵と技の物語だが、テンポが実にいい。
その後、図書館で一力の本を15冊ほど借りて読んだが、読んでみて、山本一力の底辺に流れる一貫した思いが、――こころざしを失わず一生懸命頑張れば知恵が湧き、だれかが助けてくれる――、にあることがわかった。
間もなく目には青葉 山ほととぎす 初鰹≠フ季節である。みんなで「酒盗」(新鮮なカツオの内臓の塩辛) を肴にキリッと冷えた司牡丹を味わってみたい。
(清張の会:上田喜久雄)
自粛の中での観櫻会
待望の春が来た。櫻と酒を好む仲間が毎年楽しみにしている「観櫻会」が近づいた。
料理、楽団の手配、出席者の確認もほぼ完了。あとは、開花のタイミングと晴天を祈る
だけ。
突然、東北より千年に一度の悲報が舞い込んだ。上野公園の花見も自粛せよとの声もある中、グループ長の自宅に大先輩から一枚のFAX。
――花見は盛大に、つまみと酒は不要、会費を取り募金せよ――
どうしたものかと相談があった。
“老いた先輩達が酒を酌み交わし、一年の無事を確認する場所です”“潤滑剤も少々”とお詫びの手紙を出し強行した。好天にも恵まれ参加者も五十数名、大先輩も上機嫌。
やはり、酒は百薬に勝るものと再確認したこの頃です。
(白石傳)
出・会・い パート1
私、大野真由美は19??年に酒の全く飲めない父と母の元に生まれました。因みに、たった一人の弟も飲めません。
となると、ルーツ怪しげ?そうではないんです。今、こうやって呑兵衛でいられるのも、大変な努力と訓練の賜物なんですよ。
小学校5年生のとき、母の実家で法事があり親戚一同(これが大人数なんです)集まりました。子供同士でワイワイ遊ぶのに飽きた私は、大人達が美味しそうに飲んでいた梅酒を台所で、こっそり盗み飲みしました。
甘くて、美味しくて、ついつい。台所でいい気分になって、部屋でゴロンと横になっているところを、おばに見つかり「まあ、この子は梅酒を飲んで酔っとるよ」と、大騒ぎ。
顔は真っ赤で、おじ達に負けない位、だらしなかったとの事です。
これが私と酒の初めての出・会・いです。それ以後の努力と訓練と失敗と数々の出・会・いはまた、次の機会に。
(清張の会会長:大野真由美)
鍋島の歌 You Tubeで「鍋島の歌
作詩:吉本光一
作曲:谷口淑子
白壁の町 夕日が染めて 「おかえりなさい」の声はずむ
クッゾコ タケノコ 野の香り 小さなお膳に春萌える
嬉かヨ
さ、さ おひとつ 切子のグラスに 喜びの酒
あぁ わが人生に 富久千代「鍋島」オレンジラベル
潮の香漂う 露天の風呂に 昔懐かし名残月
ぎゅっと握って肩抱いた あの夜の君は千の風
寂しかヨ
さ、さ おひとつ 有田の猪口に 想い出の酒
あぁ わが人生に 富久千代「鍋島」青ラベル
弥生の里の 恵みに育ち 歴史とともに二千年
米も 麹も 日本一 磨くは杜氏の心意気
やったぞヨ
さ、さ おひとつ 21世紀 希望の酒よ
あぁ 人生に 富久千代「鍋島」白ラベル
(You Tubeで「鍋島の歌」)
編集後記
「はらぐち会」が富久千代酒造の蔵を訪ねて独断と偏見で作った、「鍋島」の応援歌の背景が垣間見えた。
酒でつながっている「酒縁」、縁は異なもの粋なもの、?兵衛でよかった呑兵衛になってよかった。
投稿をお待ちします。題材、文の長短を問いません。「酒」に縁のある内容であれば言うことなしです。
投稿は、はらぐち酒店に預けていただくか、kei2@bronze.ocn.ne.jp へ宜しくお願いします。
次回発行は7月12日とします。
(今朝の鮭)
はらぐち酒店: 北九州市戸畑区中本町4番9号
電話093−871−2150 sake-tobata@nifty.com